駐車場整備の変遷 (第2回)「戦後復興期の都心駐車事情と、地下駐車場の登場」
駐車場整備の変遷 (第2回)
「戦後復興期の都心駐車事情と、地下駐車場の登場」
東京ガレーヂ株式会社
代表取締役CEP 小清水琢磨
前号では松田常任理事(丸ノ内ガラーヂ株式会社取締役社長)より、昭和初期に竣工した我国初の駐車場専用ビルを本拠として戦中・戦後を生き抜いた同社の歴史と、お金を払って駐車する意識が一般的でなかった頃の営業苦労話を中心に、我国駐車場事業の黎明期を振り返って頂きました。この駐車場専用ビル(地上部分のみ)を第一段階とすると、第二段階は昭和20年代後半のビル地下駐車場の登場であり、続いて30年代半ばに完成した日比谷公園地下及び丸の内行幸道路地下二層を嚆矢として、昭和40年代以降、道路下・広場下・公園下等の大規模駐車場が駐車場整備地区の都市計画駐車場として続々建設される時代へと、我が国の駐車場整備の歴史は刻まれて行きました。昭和30年代後半あたりからはこれ等と並行して、主として土地の余裕が少ない大都市において機械式立体駐車設備や、多段式プレファブ自走駐車設備が急速に増えたこと、そして昭和50年代後半、大都市中心部で我国独特のビジネスモデルとして登場し、管理・監視機器の進化を伴って成長を遂げた無人コインパークの存在も忘れてはなりません。
1.焼野原の都心部に生まれたモータープール全盛時代
2.丸の内復興の先駆け、東京ビル地下の駐車場を嚆矢とするビル地下駐車場の勃興
・・・・・・・・・・以上を今号
次号にて
3.駐車協会の誕生、駐車場法施行
4.駐車協会の日米国際交流黎明期
5.路上パーキングメーターの誕生
6.民間主導特許事業・都市計画駐車場の第一号、丸の内第一駐車場(行幸道路地下二層)の誕生・・丸の内駐車場株式会社
1.敗戦直後の丸の内・大手町・・モータープール(青空駐車場)全盛時代
昭和27年11月三菱地所刊行の「縮刷・丸の内今と昔」の記述によると、大正末期の旧丸ビル竣工以降、東京丸の内地区では関東大震災、世界恐慌による経済不況や、数次のビル失火火災の試練を乗り越え、昭和10年代にかけ郵船ビル、丸ノ内ガラーヂ、東京中央郵便局等の新ビル20棟以上が次々竣工、都心オフィスビル街として躍進的な充実を遂げたとあります。しかし、前号で松田社長が詳説された、日本初の駐車場専用多層階ビル「丸ノ内ガラーヂ」(昭和4年竣工)でも、まだビル地下を駐車場に使う発想はなかったようです。自動車の往来は円タクや企業幹部用の社有車・ハイヤーが主の時代でしたから、高級車は丸ノ内ガラーヂさんに置き、一般来訪車両などは適宜路上駐車で事足りていたのでしょう。
路上駐車といえば、大正15年に完成し現代でも東京駅前から皇居に向かっての代表的風景となっている行幸道路ですが、幅員が極めて広い道路ですから、天皇の行幸など公式行事のない日には路駐のメッカとなっていたことは想像に難くありません。規制があまり厳しくなかった昭和40年頃まで、行幸道路上沿いに半ドンの土曜日などマイカー通勤のお坊ちゃまサラリーマン達による青空駐車が多かったことを筆者も記憶しております。
話は戻りますが、前出の「縮刷・丸の内今と昔」記述によれば、昭和6年満州事変直後は軍需会社等のオフィス需要が急増しビル新築が増々活発化したが、昭和12年の日華事変以降、鉄鋼使用制限が厳しくなり新ビルの建築は許されなくなったとあります。そのため、昭和15年春の竣工を目指し既に着工されていた新丸ビル(当時は東京舘と称した)も、基礎工事即ち地下数階分の掘削を終えたところで昭和13年末に工事中止となり、爾来大戦中から戦後復興期を経て昭和26年春の工事再開まで、12年以上の長きに亙り行幸道路を挟んで丸ビル北隣に四角い大穴の姿を曝していました。
注水したのか、雨水が貯まったのか、皇居のお濠と地下水脈で繋がっていたためか判りませんが、とにかく満々と水を湛えた大池となって戦時中は防火用水として使われ、戦後何年もそのままでしたので真夏には「遊泳禁止」の標示を無視して泳ぐ人が後を絶たず、また放流したのか前記の地下水脈の所為か不明ですが、コイやフナが沢山いて、これまた禁を破り釣りに興ずる人が多かったとのことです。かかる次第で大戦勃発前から新規建築が途絶えていたことに加え、大戦末期に空襲が激しくなるにつれ都心部は空きビルや焼け跡だらけになりました。
丸の内でも東京駅を含めて十数か所のビルが空爆被害を受け、戦いが終わった後には其処此処に歯抜けのような空地や瓦礫置場が残りました。
元々あった空地や空襲の焼け跡は、東京都心のみならず標的になった日本各地の大きな都市に数えきれないほどあったでしょうが、いきなりこれ等が自動車の置き場、即ち車庫や一般駐車場になった事例は少なく、多くは瓦礫の置場や家を再建するまでの仮住まいの場所となったものと思われます。しかし、丸ノ内・大手町・日比谷など皇居の東側では一つ特殊な事情がありました。それは厚木に降り立ったマッカーサー元帥が、日本占領行政の総本山・連合軍総司令部(GHQ)を日比谷お濠端の第一生命ビルに置いたことにより、軍事・行政全般に使用する膨大な車両の置場を司令部近辺に数多く確保する必要が生じたことでした。ゆえに司令部から数ブロック以内の至近距離に留まらず、1㎞以上離れた大手町方面に至るまで、数多くの空地が接収あるいは借り上げられ進駐軍(後に駐留軍)関係の車両置き場となりました。
米軍関係者はこれ等を「モータープール」と呼称し、この呼び方は今でも関西方面や浜松などで車庫や公共用途の駐車場に残っていると聞いております。進駐軍用だけでなく、GHQからやや遠い空地ではビル再建までの数年間を民間経営の青空モータープールとして活用する事例も 数多くみられました。
筆者の父親が我国のビル地下駐車場の先駆けであった旧東京ビル(中央郵便局隣、旧都庁前)に東京ガレーヂ株式会社を設立したのは、朝鮮動乱勃発から1年半も経った昭和26年12月でしたが、その頃はまだ上掲写真の数々に見られるような露天のモータープールが随所に残っていました。同社もビル地下の駐車場だけでは食べて行けないので、三菱地所のビル建設予定地を暫定利用したモータープールにポータブル給油タンクを併設しガソリンを販売したり、簡単な修理・板金工場を併設するなどいわば多角経営のはしりで日銭稼ぎに勤しむ時代が、復興建設が一段と加速した昭和30年代初頭まで続いたようです。
右の大手町ビル建設予定地のモータープールもその一つで、ガソリンスタンド併設で昭和30年代前半まで営業していました。現在三菱地所本社があり、協会理事会や委員会が開催される場所であること、想像頂けましょうか?
ここで観点を駐車場の顧客となる自動車交通の状況に移し、昭和26、27年頃の都心部特に丸の内地区の状況を回顧してみましょう。前述の「縮刷・丸の内の今と昔」の記述によれば戦後6年経つ頃には都内を走る自動車の数は戦前を上回るようになり、殊にオフィスの集中する丸の内付近は混雑を極めたとあります。具体的に昭和26年3月26日8:00am~7:00pmの丸ビル着発自動車台数調査の紹介があり、自家用・営業用合わせ午前1,191台、午後は2,008台、1日合計3,199台に上ったとあります。丸ビル内の会社が所有する自動車数は乗用車166台、貨物車23台しかなかったとのことですから、いかに外部からの往訪客が多かったかを物語っています。
更に丸の内一帯には常に1,800台前後の車両が駐車していて、そのため他の自動車がビルに近づけず、止む無く車道中央で停車し危険を冒して乗降するため交通事故が続発し、警視庁丸ノ内署管内の事故は昭和27年1~6月の半年で619件、 警視庁管内全体の事故数の12%という交通地獄であったようです。このため警視庁では日本で最初の試みである駐車時間制限を丸の内一帯で導入、8:00am~5:00pmまでは1時間以上継続して駐車することが禁止された由です。駐車場整備が都市インフラ分野最大喫緊の課題とされたことがよく理解できます。
上掲の写真のように交差点では都電、バス、自動車に歩行者・自転車が入り乱れ、信号が全く機能しない状況が日常茶飯事でした。まさに障害物競走の趣で、事故を怖れず突進する者が勝利し、臆病あるいは遠慮深いドライバーは日が暮れても家に辿り着けない世界でした。筆者が運転免許を取得したのは、この頃より5、6年後の昭和33年春で、道路整備と急ピッチで増える自動車数との追いかけごっこの時代でしたから、幹線道路での路上教習はスリル満点、左ハンドル・コラムシフトのフォードかシボレーしかなかった教習車両で、特攻隊並みの度胸・忍耐・精神力勝負の修練に明け暮れたことも今ではほろ苦い想い出です。
2.丸の内復興の先駆け、東京ビル地下を嚆矢とするビル地下駐車場の登場。 米国型・総合的カーマネジメントの実験場であった「東京ガレーヂ」
前章のテーマであった青空モータープールは進駐軍優先で民間利用には制約が多く、しかも都市再建が軌道に乗るにつれ当然その用地が減ってきたため、前述のように車の数も増えた昭和20年代後半になると、丸の内の駐車場不足は極めて深刻化していました。戦争で中断していた工事をそのまま再開・続行した新丸ビルは例外でしたが、新たに設計・施工するビルはすべ からく地下一層か二層の駐車場を付設し、テナント所有車両や来訪車両を全て吸収して路上駐車を減らし、スムースな都市交通を確保することが、丸の内・大手町の復興建設を担う三菱地所の基本政策の一つとなりました。
そのような基本政策の下で戦後最も早く竣工、我が国最初の大規模なビル地下駐車場を登場させたのが、中央郵便局南隣、旧都庁前に建設された旧東京ビルヂングでした。朝鮮動乱勃発 三日後である昭和25年(1950年)6月28日着工、僅か1年3か月のスピード工事で旧都庁寄りの半分が翌昭和26年9月22日に竣工しました。引き続き郵便局側の拡張部分の工事が進行中でしたが、完成した部分の地下1階を全面的に賃借(サブリース)し、同年12月に筆者の父親である小清水勇 (1909 ~1981)が三菱地所から過半の出資を得て東京ガレーヂ(株)を設立、営業を開始したものです。
拡張部分は昭和30年3月に完成、地下駐車場部分も連結されて約二倍となりました。地下駐車場出入口は写真のビル右端にあり、後にビル拡張部分完成後は長いビルの中央部に位置する形になりました。
全部駐車場に使ったのでは広過ぎて稼働率が悪いと判断したことも一要素かも知れませんが、特筆すべきは駐車スペースを66台に抑え、給油施設、板金修理や車検整備・申請まで引き受ける修理工場、ハイヤー基地、カーグッズ販売等を全て地下ワンフロアに配置した、いわゆるトータル・カーマネジメント拠点としてスタートした点です。全てのカーケアニーズを一か所で 済ませ得る便利さが受け、ビル建て替えで平成13年春に解体工事が開始されるまで半世紀以上のご愛顧を頂きました。
昭和後期には川崎製鉄、日本航空、博報堂、昭和シェル石油など大手企業テナントの本社が入れ替わりつつ入居しており、それぞれ多くの役員用黒塗り社有車を保有していましたから、それらの点検修理、車検整備、給油サービスだけでも大変潤ったと思います。
この新事業誕生にもGHQが一役買いました。小清水勇は当時の仕事を通じ、GHQ関係者から米国流総合カーマネジメント事業の重要性について強い示唆を受けていた処へ、既述のように戦災復興開発にあたり三菱地所が駐車場整備を最重要課題の一つとしたこと、そして地下駐車場第一号の東京ビル竣工間近であったことがマッチングした結果でした。
経緯説明には多少私事を語ることになり恐縮ですが、横浜元町出身で幼時から外人居留民の子弟と学び遊んで育ち英語力を身に着けた小清水勇は、成人してカナダ太平洋汽船(現在は航空会社 CP Air)東京支社勤務の後、大戦中の上海での事業経営を経て戦後帰国後、上海時代の仲間と事業を興し、語学力を武器にGHQ調達局相手に軍関係資材の製造・販売に携わっていました。
調達局というところは、資材調達のみならずモータープールなど不動産の調達も手掛けていたため、親しくなった米人将校から土地接収・賃借の交渉に際して通訳や仲立ちを頼まれることが多く、必然的に丸の内・大手町に所有物件が多い三菱地所の案件に立ち会うことが多くなったということでした。GHQ将校の中には応召前に米国で駐車場業界や交通行政に関係していた人もいたらしく、日本でも早晩モータリゼーション到来が必至であり、その暁には、駐車場とカーケアを含めたサービス業の成長が必ず都市交通の要となると、駐車場設計の技術的ノウハウなど事業の具体的イメージを含めて彼や三菱地所担当者に繰り返し力説したとのことです。
軍需関連事業の先行きに不安を抱いていた彼はこれに強い感銘を受け、次第に首都東京、しかもビジネス中心街の丸の内界隈で、伝授された米国流駐車関連サービス業を立ち上げたいとの意を強めたと、後年述懐しておりました。たまたま旧東京ビル建設工事が進行中であったのを機に、この地下スペースを舞台にGHQ将校直伝のトータル・カーマネジメ ント事業を実践したいと三菱地所幹部に説き、同社もその案に同調、やるなら専門知識や経営ノウハウを習得した彼に子会社化した「東京ガレーヂ(株)」の経営を任せようということで、陽の目を見ることになった次第です。
指南役のGHQ将校は、経営ノウハウや技術知識だけでなく、駐車場はサービス業であることを忘れず顧客をもてなす心を常に持つべしと教えたので、下のような勤務手帳を全社員に持たせ、その精神を日夜徹底教育していたとのことです。文体こそ古いが、今の世にも通ずるサービス業・接客業の原点を説いていることに驚かされます。
東京ビル竣工に続き、翌昭和27年には旧永楽ビルが小規模ながら地下駐車場付きで完成、当社がサブリースして駐車場経営を開始しました。
長い工事中断を経て同年に竣工した旧新丸ビルには地下駐車場がなく、同様に地下駐車場概念がなかった大正末期に落成した旧丸ビルとともに、丸の内駐車難の主原因となったことが、数年後に行幸道路地下二層の巨大駐車場建設計画の引き金となったものと思われます。その他では富士ビル(昭和37年 竣工)、新東京ビル(昭和38年)、国際・帝劇ビル(昭和41年)などが大規模な地下駐車場を伴って順次誕生、新東京ビルは前号テーマ「丸ノ内ガラーヂ」さんの移転先となりました。
国際・帝劇ビルには美術鑑賞等で貴顕の方々も時にお見えになることから、場内の美観・整理清掃は元より接客サービスに特に意を注ぎ、入庫ゲート付近には美人マネキン人形を配すなどして、人材不足を補い且省力化を図っていたとの当社古老の言を微笑ましく想い出します。