駐車場整備の変遷 (第4回)「駐車協会誕生・駐車場法施行、そして都市計画駐車場の拡充へと進む」

駐車場整備の変遷 (第4回)

・・昭和40~50年代

「都市計画駐車場の整備」

八重洲地下街株式会社
常務取締役 宮良 眞

昭和4(1929)年6月に開業した丸ノ内ガラーヂから始まった連載も、第二次世界大戦後の東京ガレーヂを代表とするビル地下駐車場から、いよいよ、高度成長期を迎え、放射環状道路や高 速道路の整備、地下鉄建設といった、都市全体を視野にいれた交通施策の一環として都市計画駐車場が計画され整備されていく時代となりました。ここでは、東京の都心部における都市計画駐車場の整備を、弊社設立時の様子なども紹介しながら、振り返ってみます。

本稿を取りまとめるに際し、学会誌などの搭載論文、ホームページの記述等を参考にさせて頂くとともに、地下街各社の皆さんにもご協力を頂きました。誌面を借りて、おことわりをするとともに、お礼を申しあげます。

1-1.深刻化する都市部の交通問題

敗戦後、日本は米国を始め各国や国際機関などの援助を受けながら、徐々に復興の道を歩み 始めました。特に、1ドル360円といった固定相場制や昭和25(1950)年に始まった朝鮮戦争の特需などに支えられ、実質国民総生産は昭和26(1951)年度に戦前の水準まで回復しました。

こうした経済復興に際し、産業構造が一変し人口も大幅に移動しています。これまで、就業者の大半が農業、漁業などの第一次産業に従事していましたが、製造業や小売り・サービス業 など第二次、第三次産業の就業者が急増し、昭和30年代中頃には第一次産業を上回ることになります。

「国民総生産GNPの推移」

国民所得統計(~1954年)

出典:国民所得統計(~1954年)、新SNA(1955年~)

「わが国の貿易収支の推移」

日本銀行「経済統計年報」(1970・1994年)、ただし1946~1960年

出典:日本銀行「経済統計年報」(1970・1994年)、ただし1946~1960年は東洋経済新報社「完結 昭和 国勢総覧」(第二巻)

「国勢調査による産業別就業者の割合」

「国勢調査による産業別就業者の割合

出典:総務省統計局「2000年国勢調査最終報告書 日本の人口(資料編)」、「2005年国勢調査摘出速報集計」

このように、旺盛な経済活動を支える人達が、地方から都市へ一気に流入したものの、これを支える都市基盤や生活環境の整備、経済活動が与える環境への配慮などが追いつかず、交通 渋滞、住宅難、公害の発生などの都市問題が顕在化しました。

特に、交通問題に焦点を当ててみると、昭和30(1955)年から昭和40(1965)年の間に、我が国の自動車生産台数は27.2倍となり、保有台数も13.4倍と急増しています。しかし、自動車の走行空間となる道路の整備率を、経済活動が活発な東京都の区部(23区)で見ますと、昭和34(1959)年時点で都市計画道路の完成率は、放射線で27パーセント、環状線で12パーセントという状況で日常的に交通渋滞が発生していました。また、昭和30(1955)年における区部の道路率は9.6パーセントで、欧米の主な都市が20から40パーセントであるのに比べ、著しく整備が遅 れていました。さらに、全国の駐車場整備状況は、駐車場法が制定された直後の昭和33(1958)年で、乗用車保有台数のわずか2.3パーセントでした。こうした数値でも明らかなように交通状況は深刻であり、本連載で、松田三四朗、小清水琢磨の両氏が述べられているように、 昭和20年代後半の道路幅が広い幹線道路や駅 前広場は、モータープール状態でした。

「自動車生産台数と保有台数の推移」

日本自動車工業会調べ(自動車生産台数)、運輸省調べ(保有台数)

出典:日本自動車工業会調べ(自動車生産台数)、 運輸省調べ(保有台数)

「都市計画道路の整備率」(昭和34(1959)年1月)

東京都都市計画概要-昭和34(1959)年より引用 編集東京都建設局都市計画部 昭和35(1960)年3月

出典:東京都都市計画概要(昭和34(1959)年)  編集/東京都建設局都市計画部(昭和35(1960)年3月)

「諸外国主要都市の道路率」(昭和30(1955)年)

東京都首都整備局「東京都市計画道路の現状とその将来」 都市計画道路白書 昭和35(1960)年より引用

出典:東京都首都整備局「東京都市計画道路の現状とその将来」(都市計画道路白書 昭和35(1960)年)

「全国の駐車場整備状況」(昭和48(1973)年3月)

「駐車場に関する調査結果」(建設省都市局都市再開発課調)による 八重洲地下街㈱「建設史」より引用

注:「駐車場に関する調査結果」(建設省都市局都市再開発課調)による 出典/八重洲地下街㈱「建設史」より

1-2.駐車場の都市計画決定と駐車場整備計画の策定

駐車場法制定前後の社会経済状況等については、小清水琢磨氏が「PARKING第212号」(前号)で詳述されており蛇足となりますが、改めて取りまとめてみます。

このような自動車走行台数の増加、道路や駐車場整備の遅れ、交通渋滞による経済活動への阻害といった交通問題を解決するため、政府および関係機関は、道路整備を強力に推進するとともに、駐車対策に乗り出しました。昭和27(1952)年には首都建設委員会(首都建設法に基づく国の機関、東京都の区域内の重要施設の基本計画を定めた)や東京都建設局が駐車実態を調査し、たとえば、丸の内、銀座地区122ヘクタールで日中の5時間で延べ2万台の路側駐車があったことを把握しています。路上駐車は当たり前で、車を駐車場に止めるといった感覚が薄かったので、道路の交通機能を大幅に阻害していました。

こうした状況を踏まえ、首都建設委員会では、昭和28(1953)年9月、首都における駐車整備対策を公表し、室町、日本橋、京橋、銀座、丸の内、日比谷の各地区に路外駐車場を整備していくことを定めています。

「東京都市計画駐車場(路外)整備状況」昭和52(1977)年3月

東京都都市計画局施設計画部交通企画課資料より引用

出典:東京都都市計画局施設計画部交通企画課資料より

こうしたなか、政府は駐車場の整備を含め総合的な駐車対策を推進するため、昭和32(1957)年に駐車場法を制定します。この法律により、自動車交通が著しく輻輳する地区で円滑な道路交通を確保する必要があると認められる区域については、都市計画に駐車場整備地区を定めることが可能となりました。また、地方公共団体は、その駐車場整備地区における駐車場の整備に関する計画を定めることができるようになりました。

特に、東京都では、急増が予想される駐車需要に対応するため、都心部、新宿、上野・浅草、 新宿、渋谷を駐車場整備地区に指定しました。これら整備地区内の駐車場は、都市計画法に基づく都市施設(道路、公園などと同列の施設)として位置づけられ、そのほとんどが、道路や公園、広場下など公共用地の地下を利用し、地下公共駐車場として整備されることになりました。

「駐車場整備地区」

八重洲地下街㈱「建設史」より引用

出典:八重洲地下街㈱「建設史」より

2-1.民間による都市計画駐車場の整備

都市計画施設である公共駐車場は、東京都などの公的機関が整備することになっています が、民間が建設大臣(現在の都市計画法では都道府県知事)から建設に関する特許を得て、いわゆる「*特許事業」として整備することが可能です。都市計画決定された駐車場の第一号は、昭和31(1956)年4月の「日比谷」で、旧日本道路公団が建設大臣の特許を得て整備し、日比谷自動車駐車場の名称で現在に至っています。また、純粋な民間による整備に関しては、昭和31 (1956)年10月に計画決定された「丸の内第一」が初めてで、昭和35(1960)年2月に地下二層式で供用が開始されました。都市計画された駐車場のうち、一番早く供用が開始されており、現在では、丸の内を中心とした再開発に際し、地下一層部分を駐車場から道路へと都市計画を変更し、快適な歩行空間として再整備されています。

都市計画で定められている駐車場といった性格から、当然、まちづくりと一体的に整備された事例が多く、新宿駅や淀橋上水場跡地を開発した新宿駅西口の開発とともに整備された新宿駅西口駐車場(管理・運営:㈱小田急ビルサービス)、東京駅八重洲口周辺の土地区画整理や街路の整備とともに整備された東京駅八重洲駐車場(管理・運営:八重洲地下街㈱)など枚挙にいとまがありません。

「事業者別供用開始駐車台数」(昭和48(1973)年3月)

「事業者別供用開始駐車台数」(昭和48(1973)年3月)

出典:八重洲地下街㈱「建設史」より

さらに、整備に係る全体像を俯瞰すると、昭和48(1973)年の時点で、都内の路外駐車場の整 備主体を、供用開始した駐車台数でみると、東京都が約10パーセント、日本道路公団と首都高 速道路公団で約25パーセント、民間による整備が65パーセントであり、都市計画駐車場の整備に関し、民間が大きな役割を果たしていることがわかります。

*特許事業

・都市計画法第59条第4項の規定により、民間事業者が都道府県知事の認可を受けて都市計画施設(都市計画で定められた駐車場)の整備に関する事業を施行するもの。(東京都都市整備局ホームページより引用)
都市計画法(昭和43年6月15日 法律100号)
第59条第4項国の機関、都道府県及び市町村以外の者は、事業の施行に関して行政機関の免許、許可、認可等の処分を必要とする場合においてこれらの処分を受けているとき、その他特別な事業がある場合においては、都道府県知事の認可を受けて、都市計画事業を施行することができる。

・現行の都市計画法が制定される昭和43年以前では、旧都市計画法の規定により、特許を得て都市計画駐車場を整備している。
旧都市計画法施行令(大正8年11月28日、廃止昭和44年6月13日)
第1条ノ2 都市計画事業ハ市又ハ都市計画法第1条ノ規定ニ依リ指定スル町村ヲ統 括スル行政庁之ヲ執行ス
第6条    行政庁ニ非サル者都市計画事業ヲ執行セムトスルトキハ建設大臣ニ特許ヲ申請スヘシ

「民間による都市計画駐車場の整備(抜粋)」(平成27(2015).10.31現在)

「民間による都市計画駐車場の整備(抜粋)」(平成27(2015).10.31現在)

八重洲地下街㈱調べ

2-2.八重洲地下街の駐車場整備

≪八重洲の語源≫

「八重洲」の語源は、江戸時代に日本に漂着したオランダ人航海士、ヤン・ヨーステンの名にあると言われています。慶長5(1600)年、航海中の暴風により豊後国(現在の大分県)に漂着し、江戸に上がった彼は、虎12頭を時の将軍徳川家康に献上し、喜んだ家康は江戸城そばの和田倉門外に居住を与え、外交顧問として重用しました。このヤン・ヨーステンがなまって「耶楊子(やようす)」となり、「八代洲(やよす)」、「八重洲」に転じたというのが有力な説とされています。元禄の頃には、「やよすかし」、「八代洲河岸」と呼ばれ、日本初の鉄道が開通した明治5(1872)年頃には八重洲一、二丁目と定められ、昭和4(1929)年の町名変更により、東海道線を境に皇居側を丸の内、海側が八重洲となりました。

≪八重洲周辺のまちづくり≫

東京駅については、大正3(1914)年に首都の中央駅として開業しました。当時の出入口は丸の内側だけで、八重洲口は昭和4(1929)年に開設されています。

東京駅周辺の街並みは、丸の内側が武家屋敷、八重洲側は町人のまちとして区画されていましたが、第二次世界大戦により灰塵に帰し、八重洲口周辺のまちづくりは、戦災復興で再出発しました。

敗戦後の昭和20(1945)年12月に戦災地復興計画基本方針が策定されたものの、不安定な政治 情勢、厳しい財政状況、住宅難や食糧難などのため、計画は大幅に縮小され、さらに、昭和24(1949)年のドッジライン実施により復興区域や事業内容が限定されました。

東京駅八重洲口周辺の都市基盤は、こうした戦災復興やその後の高度経済成長に対応するよう計画、整備されています。具体的には、すでに計画決定されていた街路に加え、昭和31(1956)年から昭和33(1958)年には、八重洲口駅前広場、地下の歩行者専用道、駐車場が定められました。

≪会社創立と地下街の建設≫

いよいよ事業実施の段階となりますが、民間9社から地下街建設の請願が東京都や国鉄に出されていました。いずれも八重洲地区の発展を目指して申請されていますが、公共駐車場、地下通路、商店街など地下街の建設、管理、運営を民間で行う場合、資金調達力、工事施工能力、信用・資力などが不可欠であり、審査に多大な時間を要するため、関係当局としても安易に決定することが困難であったと推測され、なかなか認可されませんでした。

そこで、請願者が公共事業の性格をあらためて理解し、一体となって新たに出発する姿勢を示すことで、関係当局が前向きに判断しやすい環境を整えるのが上策ではないかといった考えから、各社の賛同を得たうえで、請願の一本化を図りました。こうした調整を経て昭和33(1958)年12月に、後の八重洲地下街㈱となる東京地下駐車場㈱が発足しました。

会社創立となったものの、東京都、日本国有鉄道、首都高速道路公団、警視庁、東京消防庁の各関係部局、電電公社、東京電力、東京ガスなどの関係企業との調整、設計図や施工図などの関係図書の作成などに多大の時間を要したこともあり、建設大臣から地下街建設の特許を得たのは、八重洲通り下の一期工事区域については昭和36(1961)年11月、および八重洲口駅前広場と外堀通り下の二期工事区域については昭和39(1964)年7月でした。

工事についても困難を極めました。工事区域は東京駅八重洲口であり、自動車、都電、バスといった交通が輻輳しているうえ、地下埋設物も多数あり、交通機能を阻害せず地下埋設物を安全に移設していく必要がありました。また、工事中には外堀に架橋されていた八重洲橋の基礎コンクリート撤去、首都高速道路八重洲線との接続など工事費の増嵩や工期の長期化といった懸念もありましたが、昭和40(1965)年6月及び昭和44(1969)年2月に、それぞれ開業させることができました。

「一期工事と二期工事の区域」

一期工事と二期工事の区別

「A-A 断面」

A-A断面図

「B-B断面」

B-B断面図

「二期工事(八重洲口駅前広場部分)」

「二期工事(八重洲口駅前広場部分)」

「八重洲通り(駐車場出入口)」

「八重洲通り(駐車場出入口)」

3.終わりに

東京のまちづくりの観点から定められている都市計画駐車場の整備に関し、公共団体によるもののほか、民間の力が大きいことが改めて明確になったと考えています。こうした駐車場は、全国的にみても昭和30年代初頭の高度経済成長を背景とした自動車保有台数の増加と、これらによる無秩序な路上駐車の解消、道路交通の円滑化を意図したもので、法整備の観点からは駐車場法の制定、整備の観点からは特許取得による民間整備となっています。

このような駐車場が整備されて、約50年が経過しています。当然、この間に社会経済状況、価値観、まちづくりに対する考え方も変化しており、東京都区部の都市計画駐車場のように、都市計画に位置づけた駐車場の役割が、今日でも陳腐化せず生き続けている地域もあれば、まちの開発が狭小な箇所に集中し、各々の開発で附置義務駐車場を整備した結果、過大な駐車容量となり新宿、渋谷、大手町・丸の内・有楽町、銀座など、地域の独自ルールを制定している地域もあります。さらに、地方都市に目を転じれば、遊休化している土地の駐車場化、使い勝手が悪いまちなかに散在する附置義務駐車場など、まちの活性化を阻害していることもあります。

今回の特集で駐車場整備を改めて振り返りましたが、今日的話題として、地方都市の活性化と生活のしやすさを目指すコンパクトシティ化と駐車場のありかた、コインパーキングの隆盛といった営業形態の変化、省スペース化を図る機械式立体駐車機器の導入、環境対策に資する電気自動車普及と充電機器の設置などがあると思います。引き続き、各界の専門家による投稿を期待します。