駐車場整備の変遷 (第1回)我が国初の自走式立体駐車場「丸ノ内ガラーヂの誕生と歴史」

駐車場整備の変遷 (第1回)

駐車場専用ビルの先駆として

我が国初の自走式立体駐車場「丸ノ内ガラーヂの誕生と歴史」

丸ノ内ガラーヂ株式会社
取締役社長 松田三四朗

実用新案第109323号の画期的駐車場

昭和4年(1929年)6月15日、今から86年前に東京・丸の内の一角(旧東京市麹町区丸ノ内一丁目8番地)に6階建鉄筋コンクリート、延べ床面積5,297.79㎡(1,602.58坪)のスタッガードフロア式いわゆる自走式立体駐車場が建設されました。これが「丸ノ内ガラーヂ」で収容能力は250 台、言うまでもなく日本最初で最大のビルガレージ方式の立体駐車場でありました。

丸ノ内ガラーヂの誕生には初代社長水嶼峻一郎(みずしましゅんいちろう)の存在なくしては語れません。水嶼は明治42年(1909年)頃、当時まだ日本に販売店がなかったルノーをフランスから取り寄せ販売していました。その後大正2年(1913年)東京市京橋区に水嶼商会を設立し、ルノー社と代理店契約を結びました。水嶼峻一郎は明治11年(1878年)に岡山県に生まれ、明治28年に上京して慶応義塾に入り、34年に卒業すると商業視察に欧州各国を歴訪。日露戦争後、再びフランスやアメリカで貿易の実務を学んだ人です。

開業広告

ルノー車は欧米の他の乗用車に比べて、破格の高価格であったので思うように売れず、ルノー車を使ってハイヤー業を始めました。その後車庫業を思いつき大正11年帝国劇場の隣、東京會舘前に4階建てのビルを建てて一階を車庫にしました。「昼は三越、夜は帝劇」というのが当時の上流階級マダムの代名詞であったので、帝劇や東京會舘のお客を対象にしたこの車庫兼ハイヤー業は大繁盛しました。

ところが、それも束の間、一年後に関東大震災が起こって、帝劇、東京會舘等と共に水嶼車庫も消失してしまいました。全てを失った彼は一時茫然自失でしたが、やがて気を取り直して 大正14年にルノー車の販売権を日本自動車㈱の大倉喜七郎に譲って、自動車販売とハイヤー業から手を引きました。そして好評だった車庫業の経験から、フランスや米国で普及し始めていた大型パーキングビルの開発を計画し、大正15年9月、「水嶼式自動車庫」を設計し、実用新案第109323号を申請、昭和2年7月11日付で特許されました。

(自動車史家佐々木烈氏著「日本自動車史Ⅱ」より引用)

ここで何が実用新案であるかというと、水嶼式は左半分のフロアと右半分のフロアを半階分ずつ段差を付け、斜路で結ぶものです。ですから6階建でも左右合わせると12層になります。それにより1階から2階に一気に昇る斜道式に比べ斜路は短く緩やかになります。

又、斜路にかかるスペースが少なくなり、多くの車を収容でき、1台当たりの建設コストも少なくて済みます。今ではどこにでもあるパーキングビルの構造ですが当時は画期的なアイデアであったと思われます。

平面図

平面図

月極料金は月額35円、現在に換算すると20万円の高額に

水嶼式自動車庫の特許をとると、先にルノー車の販売権を譲った大倉喜七郎に車庫建設資金 の援助を要請しました。大倉喜七郎は大倉財閥の総帥「大倉喜八郎」の長男で、息子は自分より劣るから喜七郎、孫は喜六郎と名づけたそうです。ちなみに大倉喜八郎の起こした現存する事業の代表的なものは大倉組(現大成建設)で喜七郎の起こした事業の代表的なものはホテルオークラです。喜七郎は若くして英国に留学し、金にあかして新し物好き、特に自動車は明治40年(1907年)英国の自動車レースで、イタリアのフィアットを駆使して2位に入賞し、川崎競馬場では飛行機と競争して15秒リードして見事勝利を収めたという経歴の持ち主です。

喜八郎は質実剛健にして国士、政商でしたので、西洋かぶれの軟弱な遊びを好む息子への覚えはあまり良くありませんでした。いつの時代にも親と息子の確執はあるもので、一種の遊びと目される自動車関連の投資は好まず出資は許可しませんでした。そこで水嶼社長と喜七郎は三菱合資会社地所部(現三菱地所)、当時地所部長の赤星陸冶さんに掛け合い、“天下のビジネスセンターである丸の内に、ビル駐車場が一つもないとは三菱の恥でしょう。”と言ったとか言わないとか巷ではそう伝えられております。

こうして昭和3年(1928年)丸ノ内ガラーヂ株式会社が資本金20万円で設立され、車庫建築請負は合資会社清水組(現清水建設㈱)で翌昭和4年6月開業の運びとなりました。ここで特筆すべきは、現在東京では届出駐車場の開業の時には、区役所や市役所等に届けるのですが、当時は 警視庁に営業許可を貰う必要があったということです。土地建物は三菱合資会社地所部、管理運営は大倉という形で、総工事費は当時の金で¥408,190.24でした。この金額は後年昭和40年 (1965年)にこのビルの消滅を惜しんで当社で記念に作った縮尺50分の1の模型の製作費とほぼ同じだったので36年間のインフレのすごさを感じざるを得ません。このビルガレージを家賃月額4,000円で三菱さんから賃借し、駐車料は、月極1台35円、夜間のみ25円、昼間のみが20円、 臨時駐車は1日1円50銭でした。月極35円は当時の大卒初任給とほぼ同じであったので、現在の 20万円ぐらいであったと思われます。

開業当時の営業許可証

開業当時の営業許可証

開業当時のパンフレット広告

開業当時のパンフレット広告

当時東京には1,500台あまりの車しかなく、その内、丸の内に出入りする車は500台程度でありました。何しろ車自体が珍しいものである上、路上駐車が当たり前の時代であったため、いくら斬新なビルガレージが建ったとはいえ、これではとても駐車契約等とれるはずもなかったようです。開業式典のテープカットで入ってきた車両は、大林組の東京支店長専用車ただ1台 という寂しさだったといいますから、契約車集めの苦労は相当のものがあったと思われます。“まるでガラガラ”の丸ノ内ガラーヂだから“丸ガラ”だと茶化されることもあり、やがてそれがニックネームとなり現在でも使われています。

昭和5年9月、予想外の営業不成績に大倉喜七郎は水嶼社長をわずか1年3ヵ月で解任し、昭和自動車の配川政雄を2代目社長に抜てきし会社の再建を図りました。

人力車まで触手をのばしたなりふり構わない営業

昭和4年6月25日開業当時の宣伝パンフレットを見ますと、「商品車(展示していて販売する車)や中古車は特に低廉なる料金を以てご便宜を図ります、尚お置き場料金は各階別又は型の大小により多少の差異が御座います」とあり、自動車洗車料金は、「普通乗用車1回50銭、小型自動車は30銭」でした。さらに「防火盗難に対する設備は勿論、優秀な洗車設備が完備されて 居ります」とありました。

その中でも、最も極めつけのサービスは、「無制限無料洗車サービス」でした。契約車には1日何回でも、ご用命があれば洗車してあげるのです。まるで昔の軍隊で 新兵さんが古参の下士官に奉仕するようなものです。深夜に帰ってくる契約車のお客さんに、“おい、洗っておいてくれ”と云われれば宿直の従業員は眠い目を擦りながらセーム皮で洗わねばなりません。さあ、雨の日は「地獄のシゴキ」です。入庫して来る全部、1台残らず洗車です。最初のころは台数が少ないので、大したことは無かったようですが、追々契約車が増えてくるとたまりません。2~3年後には洗車専門要員を雇うことになりました。洗車要員と宿直員の4名でやるのですが、全部洗い終えると夜がしらじらと明けるのだそうです。それでも古き良き時代です。深夜になって一休みする時、「うどん、そば」の出前を快く遠くからでも届けてくれたそうです。

しかし支那事変、大東亜戦争と戦火が進展するにつれて従業員は徴兵のため人手不足となり、また契約車も次第に増えてきたため、無料サービスは廃止して有料としたので洗車の数も少なくなっていったようでした。宣伝文句ではサービスを前面に出して、契約車集めが行われた模様です。そのため契約料金はあって無きがごとしで、値切られれば応ずるしかない状況が続いたようです。4代目社長松田務によれば郵便車を預かるように交渉し、真っ赤な車が50台ぐらい入っていたこともありましたが、これらは値切られて1台10円ぐらいだったといいます。他に霊柩車、果ては庶民の足だった人力車まで契約し、そのなりふり構わない経営は一際注目を集めました。

B29の焼夷弾にも無傷だった頑丈な建物

日本初のビルガレージ方式の立体駐車場としてセンセーションを呼んだ「丸ノ内ガラーヂ」でありましたが、創業した昭和4年(1929年)以降の数年間は、厳しい経営環境を余儀なくされました。昭和10年頃になると、国産車が少しずつではありますがお目見えし、契約車も次第に増えていきましたが、まだまだ十分な数とはいえませんでした。

丸ノ内ガラーヂが一躍脚光を 浴びるようになったのは、B29の東京大空襲以降でありました。連日のごとく投下される焼夷弾にも拘わらず、まったくの無傷で車を守ったからであります。これは鉄筋コンクリート6階建という頑丈さもさることながら、ビル内に設置していた立派な消火設備を使って従業員が必死に消火作業に当たり、収容していた車を戦火から守ったからなのです。路上駐車していた車は勿論のこと、他の車庫に収納していた車は全て延焼、爆発しました。屋上に落ちた焼夷弾は貫通しないで燃えていたそうですが、それを縄ボウキでたたいて必死で消そうとしたともいわれています。また窓ガラスも当時としては非常に厚く、丈夫な金網が入っていたため、周りからの猛火を完全に遮断した様です。

この丸ノ内ガラーヂに収納していた車だけが無事だったことで、評価は一夜にして巷の噂となり広がっていきました。そのおかげで「空襲にも安全」という評判を呼び、戦後は契約車が一段と増えていったようであります。これだけ頑丈な建物だけに、進駐軍が目をつけないはずはありませんでした。進駐軍の倉庫に最適と判断され、あわや接収されそうになりましたが、3代目社長石川愛作は松田務専務とともに日夜調達局に出向き、接収の回避を図りました。その甲斐あって接収を免れましたが、その後財閥解体の命により、大倉の資本財産は当時の在職従事員に分与されたのでありました。これが逆に民主的な会社経営へと転換していくこととなり、石川社長はまもなく、東京駐車協会はじめ各地区協会の設立に注力し、社団法人全日本駐車協会の副会長を務めるに至りました。

昭和20年代前半は、復興のため、破壊されたビルや住宅の建設に追われて、車の車庫までは気が回らない状況でありましたので、物資不足の折、路上駐車の車は頻繁にパーツやガソリンの盗難にあっていたそうです。そのため都心部で唯一のビルガレージである丸ノ内ガラーヂには、契約の申し込みが殺到し、申し込みにはプレミアがつき、何と250台収容のガレージに倍の500台の契約を受けてしまう程でありました。倍の契約が可能だったのは、当時としては路上駐車規制が緩やかで、昼間は路上に駐車し夜遅くなってから駐車場に入庫する方法がまかり通っていたのです。

夜になると斜路にまでギ ッシリと詰め込むことができた訳ですが、翌朝の出庫仕事が大変であったため、それぞれの出庫時間を聞いて、遅く出る順に従業員が運転して入庫していく方法を採りました。あまりにもぴったり詰めた為、ドアが開かず窓から出入りしたとのこと。そんな状態でしたので、たびたび接触事故が起き、従業員が会社や運転手さんに謝りに行くのですが、その頃は皆さんおおらかで、さしたるおとがめもなく済んだということです。

  
丸ノ内ガラーヂビル

丸ノ内ガラーヂビル

昭和20年代から30年代、自動車の保有台数は飛躍的に増加しました。この時期モータリゼーションの推進役となったのは、小型4輪トラックや普通トラックでありましたが、昭和30年台になると、生活水準の向上や道路事情の改善を反映して乗用車が急増していきました。これを受けて、駐車場の需要も増加していったのです。

昭和41年の解体以降は別のビルで地下駐車場を経営

しかし、当社の黄金時代は昭和23年頃から35年頃までで終わりを迎えることになりました。といいますのも、日本経済の発展、モータリゼーションの進展で、ビルガレージが都心でも続々と建設されていったからであります。昭和39年、家主である三菱地所が当社の使用している土地を日本興業銀行(現みずほ銀行)に売却することを決定。それを受けて丸ノ内ガラーヂビルは、昭和41年に解体されることになり、37年間の歴史にピリオドが打たれたのであります。

当社は昭和39年(1964年)12月末に、三菱地所の御好意により現在の新東京ビル(丸の内3-3-1)に移転し、ビル地下駐車場(収容200台)経営に乗り出すことになりました。移転した当時は遠くなった為に、今までのお客様は離れていきました。そして何より困難を極めたのは、旧ビルで月極18,000円であった駐車料が、新ビルでは50,000円にせざるを得なかったことです。2.7倍になった駐車料をお客様に払って頂けるのか、不安に満ちた移転の決断でした。しかし、新しい大規模ビルにはそれなりのテナントが入り、契約も徐々に増えていきました。移転した当時の時間駐車の料金精算は全て人力で、入庫時にはタイムスタンプで刻印した入出庫票を運転手さんに渡し、出庫の時にはその票を受け取って再びタイムスタンプで刻印、暗算で料金を計算していました。誰が一番正確に早く料金を計算できるか、みんな競い合って生き甲斐のようになっていました。

ところで当駐車場の機械化は過去2回に渡って行われています。最初の機械化はゲートが無かったころですが、発券機から券を手にした顧客は、出庫するときに料金所で券をスタッフに渡すと、計算機で自動的に料金を算出する方法を採っていました。料金所を無人化したのは、平成5年の秋からのことで、自動精算は丸の内で最も早かったようです。といいますのは、平成4年3月に東京駐車協会主催、全日本駐車協会後援(当時は東京駐車協会主催の海外研修もありました)で、アメリカ・カナダ春季駐車場研修会という研修がありました。ロスアンゼルス、 サンディエゴ、サンフランシスコ、バンクーバーを回るもので、それに私も参加させて頂きました。

アメリカの駐車場は、どこもスケールが大きく、1千台から3千台も収容でき、すでに料金精算は無人自動化されていました。それを見た私は感動して、是非私の駐車場にもこのシステムを導入したいと考えました。日本では、「km国際」の赤坂駐車場がアマノ社製の自動精算機を採用しておりましたので、早速見学に行きましたところ、時間駐車や月極駐車の請求業務まで、パソコンで自動発行できるシステムであったので、大いに気に入り「km国際」の指導の下に当社も導入することができました。当時は偉い人の乗る契約車をゲートバーで停止させるのはけしからんという風潮がありましたが、採用してみると何のトラブルもなくお客様には 受け入れて頂きました。その後事故や犯罪防止のため、監視カメラを充実させ、平成20年には空いているスペースが良く分かるように、「招き灯」を設置してお客様の便宜を図りました。

新東京ビルに移転して早50年。移転した当時(昭和39年)5万円だった月極料金はいまだに8万円止まりでわずか6割しか上昇していません。相変わらず駐車場業界はデフレが続いております。また駐車場を取り巻く環境はその時々の社会情勢や地域要因等により様々ですが、全国各地で駐車場を経営する会員の皆様も状況への対処にご尽力されていることと思います。我々「丸ノ内ガラーヂ」も周辺では次々と新しい高層ビルへの建て替えが進められ、また契約車両や時間駐車を増やすにはどうしたらよいか等々いろいろと課題がありますが、駐車場の先駆者としての誇りをもってこれから先も駐車場経営に邁進していきたいと思っています。