駐車場整備の変遷 (第3回)「駐車協会誕生・駐車場法施行、そして都市計画駐車場の拡充へと進む」
駐車場整備の変遷 (第3回)
・・昭和30~40年代
「駐車協会誕生・駐車場法施行、そして都市計画駐車場の拡充へと進む」
東京ガレーヂ株式会社
代表取締役CEP 小清水琢磨
終戦直後の都心駐車事情とビル地下駐車場建設の興隆までを回顧した前号に続き、今212号(第三回連載)も同じく筆者が担当し、昭和30年代早々の駐車協会の設立、また協会誕生の背景となった昭和32年~33年の駐車場法及び同法施行令の制定から稿を進めます。前号の露天モータープールにせよ、ビル地下駐車場にせよ、全て建築や設備面、即ち駐車場のハード面に関する記述でしたが、協会設立と駐車場法制定は、その後の我国駐車場業界の在り方と駐車場整備の方向を決めた画期的な出来事であり、業界を取り巻く環境整備というソフト面で、一つのエポックの幕明けであったと言えましょう。
協会設立・駐車場法制定、初の路上パーキングメーター設置等のトピックスに続き、日米同業者の情報交換・知見導入の場となった日米両協会の国際交流に触れ、最後に次号のテーマとなる、昭和30年代半ば以降主として行政主導で推進された都市計画駐車場の拡充に繋ぐ意味で、身近にある最も初期の都市計画駐車場建設事例として丸の内第一駐車場(行幸道路地下二層)誕生までを記すことにしました。国、自治体、それに民間駐車業界が一体となって、正に衝き動かされたように駐車場整備と道路交通近代化に全力を傾け、戦後復興を完成に導いたダイナミズムをあらためて再認識した次第です。
協会の発足及び駐車場法の制定、いずれも昭和32年(1957年)の春という60年近い大昔の事です。業界古狸の筆者ですら歌の題にもなった高校三年生の頃ですから、先号でご紹介した筆者の父親(小清水勇)が、『全国の車庫屋さんが協会を創り、駐車場業界の近代化と発展を図ると同時に大都市の駐車難を解決したい。国家経済のため、また東京五輪開催の実現に向け、国と東京都が道路建設、都市計画及び地下鉄など都市交通整備に総力を挙げ努力しているのに、民間としても少しでもお役に立ちたいということだ』と称して、今日は京都、来週は福岡だと出張ばかりしているのを横目で見ていた記憶が残っている程度です。ですから当時の経緯や背景を自分で視て来た出来事の如く書くわけには参りません。そこで頼りにしたのが、協会機関誌PARKING(創生期には“駐車”、数年後に“ぱあきんぐ”、第21号から現在の PARKINGと誌名は遷りました)のバックナンバーの数々です。時系列的な記録、業界の問題意識など時代の背景が創刊号以降の各号に写真を交え克明に記されていますので、それらの記述を引用・抄訳させて頂いた諸点が多々ありますことを、冒頭お断わりさせて頂きます。写真についても広報委員会のお許しを得て、要所で転写掲載させて頂きました。
駐車協会の誕生と、駐車場法の制定・施行
読者のご理解の便に、先ずカレンダー上で何が何時起ったかを整理してみましょう。
昭和32年(1957年)3月 4日
日本駐車協会発起人会(後に設立委員会)開催
同 4月17日
日本駐車協会(任意団体)設立総会開催・正式発足
同 5月16日
通常国会にて駐車場法(法律第106号)制定
同 8月15日
日本駐車協会、第一回通常総会開催
同 12月13日
駐車場法施行令公布
昭和33年(1957年)1月20日
日本駐車協会機関誌「駐車」創刊号発行
同 2月 1日
駐車場法・同施行令ともに正式施行
同 10月 1日
東京都駐車場条例公布
同 11月 7日
東京都心部で、初の駐車場整備地区1,126ヘクタール(11.26 ㎢)指定、路上駐車場設置予定地となる
昭和34年(1959年)1月26日
東京都が日比谷・丸の内に路上パーキングメーター設置 (第一次1,283基)、供用開始
同 2月28日
銀座・日本橋・京橋にメーター設置し計画完了
同 5月26日
IOC総会にて1964年第18回五輪の東京開催決定
同 5月~10月
東京・大阪・福岡・京都各駐車協会発足、日本駐車協会は 発展的に解消。広島市・岐阜市にも協会誕生、神戸・名古 屋・仙台・奈良でも協会設立準備
昭和35年(1960年)5月
任意団体・日本駐車協会連合会創立 → 社団法人化を目指す
昭和36年(1961年)12月 1日
公益社団法人・日本駐車協会設立認可
昭和41年(1966年)12月13日
公益社団法人・全日本駐車協会設立認可
平成24年(2012年)4月 1日
一般社団法人・全日本駐車協会への移行認可
国政に目を転ずると、鳩山・石橋両内閣の後に昭和32年2月から35年(1960年)7月まで日米安保協定改定で歴史に残る岸内閣、そして高度成長時代の幕を開け東京五輪を成功させた池田内閣に続いた時代です。東京都では、公選初代の安井都知事が昭和34年(1959年)4月まで12年間、同年同月に東京五輪のホストで名を馳せた東知事が就任し昭和42年(1967年)4月まで8年間都政を担いました。従って日本駐車協会発足や駐車場法の制定は岸内閣時代、都政では安井知事の施政晩年の出来事であったということになります。
1.協会設立、駐車場法制定を生んだ時代背景
(1)終戦から10年以上経過した昭和30年代初頭、都内はもちろん日本全国で自動車の保有台数が急激に増加する一方で、道路建設・整備や駐車場施設の拡充が全く追い付かず、例えば都内の幹線道路は絶えず自動車の洪水で閉塞され渋滞が恒常化していました。協会機関誌の統計数字によると、都内の車両保有台数では戦前のピーク(昭和 15年)の58,427台を早くも昭和25年に65,054台で凌駕、更に昭和31年には253,970台に激増、32年度には優に30万台超の増勢であったとのことです。
全国的にも昭和31年5月現在1,490,872台に対し、一年後の昭和32年5月には18%増の1,757,500台に跳ね上がり、戦後殆ど無に等しかった自動車産業が、漸く小型乗用車やオート三輪など商業車生産で発展の基礎を築いた時代でした。しかし道路整備が追い付かず、都心では渋滞で商活動が阻害され、全国的にも道路交通・輸送が円滑性を欠くことで国家経済発展が阻まれる深刻な事態であったことは紛れもない事実で、道路建設、市街地の整備、駐車場の整備拡充が待ったなしの国家的課題となっていました。
(2)もう一つ、首都圏の市街地整備、特に道路や駐車施設整備など交通インフラの抜本的整備が急務となった大きな要因は東京五輪招致です。平和国家再興を世界にアピールし、また経済復興に一段と弾みをつけるためにも、日中戦争激化で幻となった東京五輪の開催実現を、政府と国民大多数の悲願と位置づけ、当初は1960年(昭和35年)開催予定の第17回大会の東京招致が目標でした。
しかし1955年(昭和30年)に視察のため 来日した当時のブランデージIOC会長から、1956年メルボルンに続き二大会連続で 欧米から遠く離れた都市(東京)での開催では、各国IOCの理解を得るのが難しかろうし、十分な招致活動期間と、都市機能や交通インフラ整備に十分な準備期間を持てるよう、二つ先の第18回大会(1964年=昭和39年)の招致を目指すべきとアドバイスされました。それを受け同年10月、東京都議会は第18回大会の招致を満場一致で決議、その後3年余全世界に向け招致活動を展開した結果、1959年5月ミュンヘン開催の第55次IOC総会で、東京が1964年の第18回大会開催地に決定したのです。因みに日本が見送った1960年17回大会はローマ開催となり、裸足のアベベ快走の舞台となったこと、ご年配の読者の記憶に刻まれていることでしょう。
2.駐車場法の骨子
協会設立と駐車場法の国会通過・制定が、昭和32年前半略々同時期に実現した時代背景は上述の通りです。つまり戦後復興の本格化と自動車交通の急増で、高速道路を含む道路建設・整備と、特に都市中心部で、路外の車両停泊地を確保し交通渋滞を軽減することが焦眉の急であった処へ、五輪大会の東京招致実現のため首都の都市・交通インフラ整備が、いよいよ喫緊の課題となっていたわけです。
建設省都市計画課による駐車場法策定はそのための具体的行動で、要は走っていない自動車を交通の邪魔にならぬよう収容する駐車場の整備を、国が後押しして大々的に推進しようとの趣旨で、運輸省・ 警視庁等との連携の下、以下を主要ポイントとする法案策定が進められ、昭和32年春の 通常国会に上程されました。 即ち、
⑴ 商業地域内で自動車交通が著しく輻輳する地区について、円滑な道路交通を確保するため、建設大臣は都市計画法に則り駐車場整備地区を指定できる。
⑵ 路上駐車場、路外駐車場等の定義を明確化し、いずれも「一般公共の用に供されるもの」と規定され、特定利用者の用のみに供するものは法の対象外。
⑶ 駐車場整備地区内で路外駐車場の能力が足りぬ場合には、建設大臣は都道府県知事の申出に基づき有料パーキングメーター等による路上駐車場設置を承認する。
⑷ 駐車場整備地区内では路外駐車場の整備を都市計画の要件として義務付け、その内自動車駐車の用に供する面積が500㎡以上あるものは、技術的基準要件を法で定める。また、之に該当する路外駐車場で駐車料金を徴収する場合は、規模・構造・管理規程、その他必要事項を都道府県知事に予め届け出ることを法制化。
⑸大規模な建築物における駐車施設の附置義務化権限を地方公共団体に付与。
運輸省でも自動車局が中心となって、前年昭和31年からバスターミナル等の整備に関する法案を準備していましたが、駐車場関連法制化を急ぐべきとの趣旨で、両省協議の末、建設省による駐車場法構想に相乗りする形となり、更に警視庁と東京都も連携して法案成立に一致協力したことが、機関誌創刊号の記事から読み取れます。
3.日本駐車協会の誕生
昭和20年代末頃から、主として都内の業界同憂の志が集まり交通問題、駐車問題を検討、協会設立の要を語り合い時機を模索する動きがあったようです。そこにいよいよ政府が駐車場法制定に本腰を入れ、昭和32年春の通常国会にての成立を目指して法案策定を急ぎ、現況調査や方向感把握のための情報収集で業界ヒアリングを行う動きが顕在化するなど、昭和31年後半より情勢が急展開したことで、法案成立に一歩先んじ協会を設ける必要を痛感し昭和32年3月4日に発起人会が開催される運びとなりました。
ここで設立趣意書と協会規約を検討、設立準備委員会に名を変え委員長名で会員募集を開始、約一か月間に20社の入会希望者が集まり、4月17日の設立総会開催に漕ぎ着けたとのことです。設立準備委員会に参加した有志は、日本ビル協会、丸ノ内ガラーヂ、三井不動産、常盤橋ガレージ、日活、日加石油、東京ガレーヂ、簗瀬自動車、木村ガレ ーヂの各社・団体で、設立総会で日本ビル協会の宮田正男会長(当時三菱地所専務取締役)が初代会長に就任しました。こうして駐車場法成立に先んじ日本駐車協会が誕生、設立時20会員の中で東京以外ではナゴヤパーキングセンター唯一社であったのは、通常国会前の協会発足を最優先したので、全国的に趣旨説明と加盟勧誘を行う時間がなかったためとみられます。
機関誌創刊号記述をよく読むと、協会設立に動いた民間駐車場業有志の思いとして先ず挙げられるのは、都市中心部の交通渋滞を解消し円滑な交通を確保して経済発展を実現するという国家的急務に直面し、またそのための法制整備である駐車場法の骨子を知るに至り、正にこれまで培ってきた民間の駐車場ノウハウを以て行政に全面協力し、届出路外駐車場の技術面と法制面の徹底を業界内で主導するなどして、法の目的達成に貢献したいという公共精神であったことは間違いないようです。
同時に民間業界のもう一つの思惑をさらりと表現すれば、都市道路交通の円滑を図るには、要所に民間の駐車場が多数出来なければ決して満足な解決は出来ない、官庁主導で単に自動車交通の輻輳激しい場所を選んで大きな駐車場を設置するだけでは、利用者のニーズとのミスマッチが起るやも知れず、また、附置義務の適正な運用を欠けば駐車場収容能力の過剰が生まれ、さなきだに収支が苦しい民間駐車業界の経営を更に圧迫する惧れがある。そこで駐車場法を真に自分のものとし、業界に不利な存在とならぬよう積極的なインサイダーとなって行政と不即不離で協力を果たすべきという思いが、公共精神とないまぜとなって一種の焦燥感による高揚を生み、協会設立に駆り立てたのだろうというのが筆者の客観的な推量であります。協会規約の第三条(事業)で、目的達成のために行う全五項目のトップに「駐車又は交通に関し関係官庁の施策に会員の総意を反映せしめること」が掲げられていることに、業界関係者の思惑、協会設立を遮二無二急いだ真意がにじみ出ています。
立法した側の建設省・運輸省としても、公布後一年以内の施行のため整備を急ぐ政令 (駐車場法施行令)策定、更に法の主要眼目の一つである路外駐車場の拡充には業界の協力が不可欠であることは重々承知していました。また、個々の業者への立法趣旨の徹底や届出制度の実務的運営についても、日本駐車協会の指導力がこれまた不可欠であることから、協会の発展が駐車場法の円滑な運営と軌を一にするとの認識で、協会設立を歓迎し大いに支援する姿勢を随所で示して頂いたようです。
このことは同年(昭和32年) 8月15日開催の日本駐車協会初の通常総会に、建設省都市計画課長以下4名、運輸省自動車局参事官・自動車道課長以下8名、通産省技官2名、警視庁警部以下4名、東京都主都建設部課長・技師以下5名と、協会メンバー数を凌駕するほどの来賓出席を得たとの記録からも窺えるところです。
協会側も 駐車場法の主旨に沿って行動を起こし、先ずは届出駐車場の手続きを漏れなく迅速に行う指導を首都圏と大都市中心に強力に展開しました。その結果、駐車場法施行初年度の昭和33年度に3,031台分、5年目の37 年度には累計24,376台分(1場平均50台としても累計約500場)の届出が完了、その後も順調に増加し平成25年 度現在で累計1,661,432台分(33,000場以上)に達する実を上げました。
路上駐車場(パーキングメーター)の設置・供用開始
昭和33年2月1日駐車場法・同施行令の正式施行に続いて、同年10月に東京都駐車場条例が公布されるに至り、いよいよ駐車場法に基づき行政が具体的に動き出しました。先ず、同年10月末に都市計画審議会において東京都心(東京駅周辺の日本橋から銀座・日比谷・丸の内地区)の11.26㎢の区域が駐車場整備地区と定められ、11月7日正式に建設省から告示されました。駐車場整備地区の中心部4.2㎢において、最終的に合計3,000基のパーキングメーターが設置されることになり、その第一次分として翌昭和34年1月26日に丸の内と日比谷の主要道路に合計 1,283基の国産メーターが設置され、有料の路上駐車場の供用が開始されたのです。同日に都庁舎内で遠藤三郎建設大臣以下、建設・運輸両省及び東京都関係者の出席の下で「路上有料駐車場開設式」が開かれ、爾来今日に至るまで1月26日は「パーキングメーターの日」として記念日となっています。料金は15分単位で10円と定められ、利用者は駐車予定時間をカバーする金額の10円玉を投入して駐車開始するか、途中で追加するシステムとなっていたとのこと です。
現代の都内コインパークの平均的料金が15分100円単位であることを考えると、用地の地代、集金・監視員コスト、消費税問題等々条件は異なれど、半世紀の間に料金は約10倍と、サラリーマンの所得や物価に比べて駐車料金は相対的に低く抑えられていると言えます。
米国主要都市では戦後間もない頃からメーター管理での路側駐車が円滑に運営されていたとのことですが、当時5セントで30分間が主流、交通の激しいところでは12分間、ちょっと閑散の地域では1時間OKという具合に、基本は反復・延長駐車はしないで短時間でできるだけ多くの駐車数を回転させることが目的であった由です。この点、10円玉を継ぎ足しさえすれば、設置の精神には反するが一応長時間駐車も可であった東京都の例はユニークであったかも知れません。
当時米国視察に行った協会関係者が聴いた話では、米国人は西部劇でお馴染みの馬車 や馬の手綱を繋ぐ杭の郷愁を路上パーキングメーターに見出したという文化的素地があり、それがメーター路上駐車が急速に普及し且つ広く利用者に受け入れられた理由の一つだったとのこと。
片や日本では、昭和30年代半ばでもタクシーを除く都心の乗用車の9割はお抱え運転手が運転する社用車等でしたから、いままで適当に路側駐車していたものが突然お金を入れさせられるのは敵わんと、ぐるぐるビルの周りを回遊して主人の帰りを待つため、メーターの前はガラガラ、交通量だけ更に増える弊害が供用開始当初は随所に見られたようです。
メーター供用開始直前の時点で民間駐車場業界の本音部分では、都心部で3,000台もの巨大な商売敵が出現することで戦々恐々とする向きもおられたようだし、車両の9割がお抱え運転手ということから急遽協会の肝いりで主要企業の運転手諸君の懇談会を開き、彼等の声を協会機関誌第2号に特集したり、とにかく大騒ぎではあったようです。運転手の声では、“雨の日に濡れてまで態々降りて金を入れに行く気がしない”、“見付かりそうになったら金を入れ、今来たばかりと言えば大丈夫だろう”、“メーター以外の場所が 駐車禁止となったら何処で親父(お偉方)を待てばいいんだ?”、“駐車違反取締が手ぬるいままでは正直者が馬鹿を見る”等々、切実な心配と、噴飯ものの意見が交錯していました。
しかしふたを開けてみると、丸の内と日比谷では開業初日以来一週間程度はメーター使用率は6割内外、昨日までの大混雑はウソのようにどの道も広々となって、交通の円滑を図るという法律の目的からみれば完全な成功であったと報じられています。真相は隣接の和田倉門・馬場先門周辺や、三菱地所所有ビルの中庭・私道などに逃げ込んで目一杯無料駐車していたこと、及び民間業者には嬉しい誤算だったでしょうが、目的地周辺にメーターの空きがなく、さりとて遠方に行っては携帯電話もない時代ですから仕事にならないため、止む無く有料路外駐車場に入る車両も結構多かったと機関誌に分析が載っていました。
ともあれ、高級乗用車は殆ど左ハンドルのアメ車で縦列駐車が容易という利点もありましたが、利用者の縦列駐車技術がメーター導入で大いに向上したことは間違いないようです。
駐車協会の国際交流
全日本駐車協会は、設立当初から米国の同業者協会とのコンタクトを密に保ち、その後も協会研修旅行で訪問した韓国の協会、大連の駐車場関係者との交流など、知見を拡げることを目的に国際交流の機会を持ってきました。2008年頃からは欧州駐車協会(European Parking Association)とも接点を持ち、2010年秋の研修旅行の目玉として、欧州協会の拠点ボン市にてドイツ協会を相手に、両国に於ける今日の駐車問題を論ずるシンポジウムを開催しましたし、米国の二大駐車協会の一つであるIPI(International Parking Institute)とは2014年秋にワシントンにて、これまた盛大なシンポジウムを開くなどして、欧米以外では我国を措いて駐車場先進国はないことを強く印象付けたと思います。
勿論最も長い交流の歴史があるのは米国の駐車協会です。現代でこそ駐車問題で米国から新たに学ぶことは少なく、IT活用や機械式立体駐車施設などで寧ろ日本の業界の方が進んでいる面も多いと言えますが、20世紀半ばの時点ではモータリゼーションも駐車場経営も米国が圧倒的な大先輩でしたから、我々の協会も米国の先進施設のノウハウや、駐車場レイアウト、建築物構造、卑近な処では路上パーキングメーターの運用ノウハウ等々、米国協会や業者から学ぶことばかりでした。
少し詳しく解説しますと、上に二大協会と申し上げたように、米国には1951設立で歴史が古く専ら民間業者から成る National Parking Association(NPA)と、約10年後の1962年設立で、民間のみならず有力都市・自治体の交通行政担当者も多く参加する International Parking Institute(IPI)が並立しており、共に本部は首都ワシントン周辺にあります。
NPAは民間業者主体ですから、全米・カナダの駐車場業者の歴史ある親睦団体として結束が強く会員数も多い大組織で、単なる親睦に留まらず駐車場スタッフの育成・訓練プログラムや、最近では時流を反映しSustainable Parking Management 即ち環境保全と駐車場経営との共生をテーマに積極的な活動を展開しています。NPAの年次総会は毎年ありますが、二年ごとに総会で全国の同業者の中から会長以下主要理事を選挙で選び、任期の間は略々専従に近い密度でNPA発展の陣頭指揮を執らせるなど、個々の会員の活力で下から盛り上げる民主的な運営を行っています。
一方のIPIはメンバーの色合いを反映してどちらかと言うと公的な視点、例えば地域開発や公共交通機関との連携、全世界的な駐車関係者との知見共有などに深く突っ込んだ識見を有しています。二、三年前にPIIの提唱で世界主要国の駐車協会の代表の集いとして“Global Parking Association Leaders Summit = GPALS”が結成されたのが最新の動きです。
IPIが行事やアンケート実施の幹事など事務局役を果たし、二年に一回IPI年次総会か欧州駐車協会総会のいずれかの機会に、半日集まって会議をするだけの会費も会則もない任意団体ですが、現時点で加盟国は20国余りの広がりとなりました。2013年にはGlobal Parking Surveyと称する各国駐車問題のトレンド調査アンケートが実施され、我々全日本駐車協会もメンバーの一員として回答作成に加わりました。集計レポートは全日本駐車協会の理事会等に報告されましたが、先進各国ともIT活用、環境問題、公共交通機関の拡充との共生が業界共通の関心事であること、日本など一部の先進国では忍び寄る人口減少・高齢化社会が駐車場業界の将来に及ぼす影響について、関係者の関心が高まっていることが窺われる内容でした。
我が国駐車協会の創生期から深い交流関係にあったのは、この二大協会のうちのNPAです。何度も名前が出て恐縮ですが、協会設立時より常任理事の役に就いていた小清水勇(1909~ 1981)は東京ガレーヂの社長の立場で、NPA創立二年後の1953年にカナダ・南米・フランス等の同業者に交じりNPA海外正会員になっていました。
前号で戦後の占領時代に駐車問題 に詳しいGHQ米軍将校との付き合いが駐車場業に足を踏み入れたきっかけとご紹介しましたが、恐らくその人の帰国後も交流が続いていたことからNPAを知り紹介を得て入会したものと推測しています。彼がNPA会員となって4年後の1957年(昭和32年)6月、たまたま日本で日本駐車協会が発足した直後ですが、デトロイトで開催されたNPA総会に出たところ、役員改選で何と彼はNPAの理事(Director)の一員に選ばれてしまったのです。
爾来何年まで理事を務めたか承知しておりませんが、理事会議案などに加えて米国内駐車事情や最新技術情報などの貴重な情報が理事の手許には全て送られて来るので、先方の同意を得て役に立つものをどんどん邦訳し協会機関誌に紹介するなど、先進知見収集のパイプ役を果たせたということです。
彼単独の交流活動に留まらず、昭和30年代半ばから40年代、50年代にかけて殆ど毎年のように、NPA年次総会開催期に全日本駐車協会の幹部会員や不動産業界関係者をご案内して渡米し、総会陪席、業界首脳との面談や、注目すべき駐車施設の見学などをアレンジした記録写真が当社のアーカイヴ に残っています。
こちらからだけではなく、NPA幹幹部が日本の状況を視察に来られた例もあります。例えば昭和35年(1960年)6月に来日したジョン・ヘンドンご夫妻は、直前までNPA会長を務められた大物で、アラバマ州の鉄鋼都市バーミンハム市を本拠に14社・115場の駐車場を経営するガレージ王といわれた方でした。
完工直後の丸の内駐車場(行幸通り地下)、日比谷公園・八重洲地下、東京ガレーヂ、丸の内ガラーヂ等々、都心の大型駐車場を視察され、「立派な地下駐車場が純民間資本でも造られていることは喜ばしい。米国では人件費節約のため、駐車券発行機など機械化万能で顧客との人間的な接触が少なくなっているが、日本ではドア開けサービス、笑顔で迎える丁寧な接客態度等々、人間味溢れる駐車施設が多いことを知り、得るところが多かった」との感想を残された旨、機関誌第 7号特集記事に記されています。
大学生だった筆者も、週末にご夫妻を箱根に運転手兼通訳・ ガイドでご案内しましたが、独特な南部訛りに初めて接し戸惑ったことや、車窓から見える青空駐車場について熱心に観察される姿などが懐かしく想い出されます。
丸の内行幸道路地下 巨大駐車場の誕生 (我国初の民間主導による都市計画駐車場)
昭和33年2月の駐車場法施行後、法の主目的の一つである駐車場整備地区指定が東京都中心部や上野、新宿、池袋などターミナル周辺を対象に具体化し、既述のように都心部ではパーキングメーター設置が一年も経たずに実現しました。更に33年中に整備地区に於いて、道路・ 公園・広場下など公共用地の地下を利用した都市計画駐車場建設が始まり、先ず日比谷公園地下・丸の内行幸道路下・八重洲通下の三か所の工事がスタートしました。
これらの駐車場は全て一般公共の利用に供するものですが、日比谷公園(元野球場跡下)は日本道路公団、八重洲通り下は東京都傘下と、ともに公共主導で33年夏に着工されたのに対し、丸の内行幸道路下(正式名称は丸の内第一駐車場)は、三菱地所など行幸道路沿いの企業が国から建設に関する特許を得た民間特許事業として遂行されたものです。
着工は翌34年1月とやや出遅れましたが、交通遮断期間をできるだけ短縮するとの至上命題を掲げ、主要部材を鉄構工場でプレ加工する等の工夫で工期わずか一年で昭和35年1月竣工、2月1日に盛大な開館披露式が挙行されました。日比谷公園下は数か月後の同年6月3日に落成式を行い翌日開場でしたから、行幸道路下が大規模な都市計画駐車場の完成第一号であったわけです。収容台数 520台の威容を誇り、換気・消火・照明など施設は最先端、また待合室はカーペット敷き、運転手控室もソファー付きなど超デラックスで、場内も写真のように整然たる装いでした。
三菱地所・渡辺武次郎社長が、岸首相、村上建設相、東都知事等の来賓を前に誇らしげにご挨拶される様子が機関誌第6号に報じられています。
思えば岸首相は、僅か10日前の1月19日ワシントンでアイゼンハワー大統領との間で日米安保条約改定調印をおえて帰国して間もなく、国会承認を巡り6月末まで続いた壮絶な60年安保騒動が始まろうと言う大変な時期に披露式に臨むほど、国家的にも大きな出来事であったのでしょう。
このあと日比谷公園、八重洲通り下に続き、池袋、汐留、京橋など数多くの都市計画駐車場が建設される歴史が始まり、首都圏の駐車場整備が一挙に進んで行くわけですが、詳しくは次号(連載第4回)八重洲地下街株式会社・宮良眞氏の稿をご期待下さい。