駐車場整備の変遷 (第6回) 「地方都市における駐車場整備」
駐車場整備の変遷 (第6回)
「地方都市における駐車場整備」
広報委員会
これまでの連載企画・駐車場整備の変遷では、戦前の黎明期からはじまり、戦後のモータリゼーションや経済成長に伴って増大する駐車需要に対応してきた歴史を振り返ってきました。東京以外の都市においては、全国へ拡がっていったモータリゼーションの流れが東京を上回るスピードで押し寄せた都市も多く、また鉄道などのインフラ密度や生活スタイルの違いにより車社会が進み、東京とは異なった歴史があります。
今回は、名古屋と福岡における駐車場整備の歴史について会員会社より寄稿いただきました。各都市、各社ならではの歴史が語られており、大変興味深い内容となっております。
名古屋における戦災復興計画と都市計画駐車場の展開
株式会社エンゼルパーク
取締役社長 河竹 徹
いま、名古屋駅を降り駅前に出ると、真新しい高層ビルが林立し、地下鉄で栄に向かえば大型商業施設群や文化施設、テレビ塔を中心とした久屋大通のグリーンベルトを見ることができます。現在、名古屋駅地区と栄地区には8箇所の都市計画駐車場があり、創業以来駐車難の緩和と交通の円滑化という本来の目的を果たしながら、この街の繁栄を支えてきたと思います。その都市計画駐車場の歴史を語る時、その展開の前提条件となった名古屋の戦災復興事業からお話を始めさせていただきます。
1.戦災復興のための都市計画とその実現
現在の名古屋の街の姿は名古屋市第14代市長佐藤正俊氏(昭和17~21年在任)、名古屋市技監田淵寿郎氏、栄町乾徳寺住職高間宗道氏、そして名古屋市民の忍耐と協力がなければ、かなり異なったものになっていたと思われます。
灰燼に帰した名古屋の戦災復興は、時の佐藤市長が以前から見識を高く評価していた田淵氏を1945年9月に招聘し、統一的に復興事業を進めるため、技術助役に相当する「技監」という新たな職名に据えたところから始まりました。
都市計画の中核をなす街路網についての田淵氏の構想は、防災、自動車の増加、美観を考慮し、名古屋の中心を十の字に百メートル道路で大きく四分し、そこを中心にして50メートルから25メートルの幹線道路をほぼ5百メートル間隔に走らせ、さらにその間に20メートルから15メートルの補助幹線道路を置くというものでした。そしてそれを、戦災地のみならず市のほぼ全域となる1,333万坪を対象とする復興土地区画整理事業と、市内の寺院にあるすべての墓地の東部丘陵地域(現在の平和公園)への一括移転で実現しようとするものでした。
この構想に基づき、10月にはただちに計画作業と測量が開始されました。その後、政府によりほぼ同じ内容の復興計画基本方針が閣議決定されたのは、その年の12月30日でした。名古屋市におけるこの着手と実行のまれに見る迅速な対応が、結果的に計画全体の実現に大きく影響しました。
1949年ドッジ・ラインの実施により、8割が国庫補助の戦災復興費は大幅に削減されることになりました。しかし名古屋は土地区画整理事業を一気呵成に実施しており、このときにはすでに90%が履行されていました。これが国の補助の大きな削減を招かず、当初の復興事業をほぼ完成に至らせた大きな要因となりました。百メートル道路は7都市が計画していましたが、 結果的に名古屋の2本と広島市の1本が実現したに過ぎませんでした。
この間、田淵氏の構想に賛同し、あらゆる困難に立ち向かい、18万余基の墓地移転整理、平和公園の建設にリーダーとしてまい進した高間氏と、土地区画整理事業に同意した市民の協力も忘れてはならないと思います。
戦前の名古屋は(図1)にありますように、 1610年の名古屋開府以来の碁盤割りの街路が名古屋城の南側にある程度でしたが、ほぼ完成をみた(図2)では、まったく次元の異なる街に生まれ変わっています。そしてこの街路網は名古屋市に高速度鉄道(地下鉄)、地下街、都市高速 道路の効率的な建設をもたらし、モータリゼーションの到来により都市計画駐車場の展開が求められた時には、まるで天恵のようにその舞台を提供することになりました。
写真提供:名古屋タイムズアーカイブス実行委員会
2.モータリゼーションの到来と都市計画駐車場の展開
1960年における名古屋市の人口は約160万人と戦前の水準を約30万人凌駕し、60年代初頭からのモータリゼーションの到来に市は対応を余儀なくされました。1957(昭和32)年の「駐車場法」の公布を受け、1959年10月に「名古屋駐車場条例」を施行し、駐車施設の附置義務と都心の駐車場整備地区(411ha)を都市計画決定しました。その後引き続き駐車実態調査を実施し、その結果をもとに1962年に1970年度を目標に駐車場整備計画を公表しました。(参照 表1)
この計画によりますと、公共路外駐車場の建設が計画の中心になっており、広幅員街路や公園の地下が建設予定地の対象となりました。また地下駐車場の建設は高コストのため、駐車需要のすべてを市営によって満たすことは困難とされ、民間出願の事業主体に対し、その経営能力と計画内容を検討し都市計画決定されることとなりました。結果として1970年の整備状況を確認してみますと、公共路外駐車場や路上駐車場の整備は計画どおりには進捗せず、変わりに民間路外駐車場の建設が目標を大きく上回り、駐車場整備地区の駐車場不足を補ったと言うことができます。
(表2)に都市計画駐車場の概略をまとめましたが、(図2)におけるおよその位置も確認いただきながら、その設立の経緯を述べてみます。
①久屋駐車場
名古屋市における最初の都市計画駐車場として計画決定され、利用者の便宜を考慮し久屋大通の地下、広小路線の南側に隣接し、市の単独事業として建設されました。計画としては駐車台数850台でしたが、第一期工事として510台が事業決定され地下鉄2号線の建設工事にあわせて着工完成しました。
②栄公園駐車場・アートパーク東海駐車場
㈱東海放送会館を事業主体として栄公園の地下に建設されました。開業としては名古屋で最初の都市計画駐車場となります。その後、市のオアシス21計画に基づき、新設の愛知芸術文化センター地下に移転し現在に至ります。
③④矢場公園駐車場・エンゼルパーク駐車場
当初、矢場公園周辺の住民の方々からの迷惑駐車問題に端を発し、矢場公園駐車場単独では採算に問題があることから、久屋大通のエンゼルパーク駐車場と併せて計画決定されました。事業会社は地域の百貨店、銀行をはじめとする主な企業と地元有志の方々の出資となりました。1970年にエンゼルパーク駐車場は久屋駐車場との計画変更により区域拡大されました。
⑤エスカ駐車場
戦後からの闇市が密集する名古屋駅西の改造のため、市は1957年に都市改造事業に着手しました。この事業の中の駅前広場計画に対応して地元有志に鉄道会社等が参画し、地下駐車場と地下街建設を目的とする事業会社が設立されました。その後、市と国鉄との協議の中で資本構成上の公共性を実現するため、市と銀行等が資本参加し事業着手されました。
⑥ユニモール駐車場
名古屋駅前駐車場㈱を事業主体として名古屋駅前、桜通線の地下に、駐車場と歩行者の安全を確保するための地下街を併設する形で建設されました。1989年には地下鉄桜通線の建設に伴い地下街が延伸されました。
⑦セントラルパーク駐車場
名鉄瀬戸線の栄への乗り入れの具体化などを契機に、久屋大通の中・北エリアの再開発事業として地下街、公園、駐車場を併せ持つ総合施設として建設されました。
⑧若宮パーク
栄南地区で大型商業施設の立地が相次ぎ、地元商店街等が駐車需要増加を見越して駐車場整備を要望し、都心核外縁部の駐車場として第3セクターで若宮大通地下に建設されました。
3.名古屋における現在の駐車場の課題
整備された都市計画駐車場は、そのほとんどが経営上もきわめて順調に推移し、現在に至っています。ここで(表3)をご覧ください。愛知県の乗用車の保有数は増加の一途をたどり、直近2014年には約405万台となり、都道府 県別の比較では第2位の東京(約314万台)を大 きく上回っています。また、(表4)のパーソントリップ調査の結果からは名古屋市における交通手段の中の自動車の利用割合が他の都市と比較するとかなり高くなっています。
資料:中部運輸局愛知運輸支局 愛知県統計年鑑
資料:第5回東京都市圏・近畿圏・中京都市圏パーソントリップ調査
愛知県には世界を代表する自動車メーカーグループの本社・工場が存在することも理由の1つではあるかもしれませんが、基本的には戦災復興計画事業による市街地・道路基盤の状況が、大都市の中でも自動車を利用しやすい環境にあることだと思います。また一方において、名古屋市の人口約230万人、市域約326万平方キロメートルという規模から、地下鉄やバスなどの公共交通機関が採算性の問題により、延伸計画や価格を含めてこれ以上のサービス拡大が望みにくくなっているということがあると思います。
昨年行われた、名古屋駅・栄を中心とする駐車場整備地区での官民協働による駐車場実態調査(路外駐車場、附置義務駐車場の約半数が参加)では平日・休日を含め平均の最大利用率は70%前後となっており、都心部では駐車需要に対し供給量が充足していることが確認されました。これを受けて、現在名古屋市は附置義務制度における駐車場出入り口の存在が、歩行者の回遊性を阻害し、有効な土地利用にも影響を与えているという観点から、原単位の緩和や隔地要件の緩和に向けて制度の見直しを検討中です。
自動車の技術開発はハイブリッド、電気自動車、燃料電池自動車、自動運転など留まることがありません。自動運転などは女性や高齢者にとって間違いなく有用なものになると考えます。私たち事業者は施設・設備の老朽化や高齢ドライバーへの対応を怠らず、ますます安全、安心で快適な駐車場を目指さなければならないと思います。
参考文献
名古屋市都市計画史 ㈶名古屋都市センター
田淵寿郎の生涯 重網伯明 著
綾杉駐車場から見た 福岡市の駐車場事情
綾杉不動産株式会社
代表取締役 中尾 卯作
弊社の経営する綾杉立体駐車場は昭和46年8月に市の中心部天神1丁目に、福岡市最初の大型立体駐車場として開業しました(と言っても190台、当時は大型でしたが今ではせいぜい中規模駐車場です)。本稿では、弊駐車場から見た福岡市(主に天神地区)の駐車場事情の変遷を振り返り、併せて今後の課題について展望できればと思います。
1.立体駐車場開業の経緯
我が家は寛政5年(1793年)以来、福岡市の中心部の天神で造り酒屋を営んできましたが、昭和32年に前面の道路が市の幹線道路として拡幅されることになり、酒造場の移転を余儀なくされることになりました。先代社長は、移転後の当地をどう利用するか、一時的に仮店舗・平面駐車場などで利用しながら頭を悩ませていました。昭和30年代後半に海外を視察する機会を持ち、アメリカでのモータリゼーションの発達の様子を目の当たりにして、日本での将来のモータリゼーションの到来に確信を持ったようです。国内での先進事例なども視察し、市内初の大型立体駐車場を建設することを決断しました。その時の心境を「清水の舞台から飛び降りる気持ちだった」と親しい人に述懐しています。昭和45年の開業時は路上駐車が当たり前の時代で、 開業当初は車の数よりも管理員の数の方が多い時期が続き、いつまで持ちこたえられるか危惧されました。転機を迎えたのは昭和46年。天神中心部にダイエーの大型店が出店し、開店日に初めて弊駐車場は満車となりました。その後は、天神の発展、車の普及に助けられ、弊駐車場がちょうど天神の入り口にあたる地の利が幸いして、おかげさまでなんとか順調に推移してい ます。
2.天神地区への商業集積と駐車場不足の顕在化
ダイエーの天神出店を皮切りに天神への商業集積が進み、昭和47年の天神地下街はじめ大型商業施設の開業が相次ぎ「天神流通戦争」と呼ばれました。天神地下街には400台余りの大型駐車場が設置されましたが、天神への商業集積は進み昭和60年代になると国中好景気にわく中で「イムズ」、「ソラリア」といった大型商業施設が相次いで開業しました。並行して立体駐車場の建設も進められてきたものの、天神地区の事務所ビルは附置義務駐車場条例以前に建てられたものも少なくなく、天神地区の駐車場不足・交通渋滞が社会問題化するようになります。
3.天神地区の駐車場誘導掲示盤の設置
このような状況の中で、福岡県警は天神地区での「駐車場誘導掲示盤」の設置を企画、福岡駐車協会の協力の下、平成元年、天神周辺の主要道路9か所の路上に掲示盤が設置されました。この掲示盤は、天神地区の14駐車場の位置を大きな盤上に配置し、運転者から各駐車場の満空状態が一目で判別できるようにしたものです。設置後2か月目の調査によると、この掲示盤設置は大きな効果があり、一日2,200台の駐車台数増加をもたらしました。天神中心部の駐車台数はほとんど減少しなかった一方、少し離れた地域での駐車場では20~70%の駐車台数増につながったのです。中心部駐車場での入庫待ちが減少したことになります。しかしこのシステムも、平成26年に掲示盤の更新時期を迎えたのを機に終了することになりました。インターネットの発達により、携帯端末で駐車場の満空状態が確認できるようになった「経済の停滞期」を迎えて空地が増え、そこにコインパーキングが設置されたなどで駐車場の需給が緩和されたことなどが背景にありました。
駐車場誘導システムは四半世紀にわたって稼働して一定の役割を果たし、その使命を終えたということができると思います。
4.需要停滞下での駐車場運営の工夫
天神の駐車場不足の状態はほぼ解消されましたが、バブルの崩壊によって方々に地上げされた空地が登場、その多くがコインパーキングに姿を変えました。また不況に伴う一般的な車の減少にも見舞われ、福岡の立体駐車場は停滞期に入りました。ここでは、売り上げが伸びない中、弊駐車場で取り組んだことを、いずれもささやかな試みばかりですがいくつか取り上げてご紹介します。
(1)安全、安心の向上
駐車場業にとって、お客様に安心して車を預けていただける駐車場であることは最も基本的な要件です。弊駐車場は、昼間は3人の従業員がいて、一人は出庫する車の精算業務、二人は場内の巡回や清掃、そして出入り口付近での場内監視に従事しています。
管理人が常時場内にいることで、お客様、特に女性には安心感を与えているようです。「見てくれている、と思うと安心できる」との声をいただいたことがあります。また監視カメラを場内に設置したこと等が功を奏したのか、車上荒らしは現在では皆無といっていいです。
(2)利便性の向上
弊駐車場では、出庫時の料金精算を管理人が行っているので、そのとき必ずお客様とじかに接することになります。「ありがとうございました」とお礼を言うことは勿論ですが、その時に気持ちの入った一言をかけるように心がけており、そうするとお客様も、 親近感を持ち率直な感想や、思わぬ情報を知らせてくれることがあります。「親切にしていただいた」とお礼にお菓子などをいただくこともあります。そのようなお客様の一言をヒントにいくつかのサービスを実施しています。「バッテリーが切れたときのブースターの無料貸し出し」、「雨の日の雨傘の無料貸し出し」、「近所の地図の掲示」などもよく利用されています。それから隣のコインパークとの対抗の意味もありましたが、料金設定を30分単位200円から15分単位100円へと変更し、お客様には喜ばれました。一応「100円パーキング」ということになります。
(3)時代の流れへの対応
地球温暖化対策で各自動車メーカーが電気自動車の生産に力を入れだしたことに対応して弊社も行政の補助金を利用して充電器を車1台分設置しました。しかし電気自動車が思うようには普及せず、現在は月に数台の利用状況です。但し利用するお客様は2~3時間は利用されるようです。地球温暖化への対応は間違いなく迫られると思いますが、それが電気自動車なのか、燃料電池車なのか、或いは脱車社会へと進むのか、よく観察する必要があります。
弊社ではキャッシュレス化への対応は遅れていましたが、一昨年ようやく機械による 事前精算機を導入し、交通系ICカードによる精算も可能としました。しかし弊駐車場では管理人を通じての精算の方が人気が高く、事前精算・カードの利用割合はまだ低い(10%台前半)状況です。
カーシェアリングの普及、ITを活用して月極駐車場の時間貸を可能にする軒先パーキングの登場などの新しい動きは、福岡ではまだ大きな流れにはなっておりませんが、このような向かい風の中で駐車場が生き残っていくためには、車を預かるだけではなく、駐車場の「一つの行動と次の行動との接続点」としての機能に着目し、「そのような機会に発生する利用者のニーズに応えるようなサービス・情報を提供していくことが求められてくるのではないか」と感じています。
5.都心部での駐車場整備のありかた
福岡市では、現在駐車場整備条例の見直し案が策定され、現在市民の意見を公募しているところです。見直し案では、「ターミナル駅から半径500M以内では、各ビルの附置義務設置基準を緩和し、その分を域外の駐車場で吸収することを可能にしよう」としています。これは、「ビル毎で駐車場を設置することによって生じる諸問題を地域全体で取り組むことで解決しよう」との考え方に基づくもので歓迎すべきことだと思います。それだけに、専用の駐車場の街づくりへの責任は大きく、利用者の安全性・利便性への対応がより一層求められるようになると思います。
尚、本稿の駐車場誘導掲示盤の項の記述にあたっては、当時、福岡駐車協会の会長を務められていた中央地所株式会社のご協力をいただきました。